「分かるけれど、解けない」という声をよく聞きます。当たり前です。「分かる」と「解ける」は、全く別のことなのです。

例えば、車の運転の仕方は、小学生でも中学生でも高校生でも知っているでしょう。アクセルを踏めば進み、ブレーキを踏めば止まります。ハンドルを操作すれば、曲がります。しかしながら、実際に、公道を走るとなると、それなりに練習が必要です。そのために、自動車教習所が存在するわけです。勉強で言うと、車の操作を知るのが「分かる」、行動での実地練習が「解ける」となります。

「分かる」とは、知識を頭に入れる作業です。先生の説明を、「そうなのか」と納得できれば「分かった」となります。一方で、「解ける」とは、その知識を頭から出す作業です。「分かる」と「解ける」は、同時に習得するものではなく、別のプロセスとして考えるべきことです。勉強をするときは、今は「分かる」ための勉強時間、今は「解ける」ための勉強時間、とハッキリ分けて考えるべきなのです。

学校の授業や、集団塾の授業は、「分かる」に重点を置きます。授業時間の中で、問題演習の比率よりも、先生が説明する比率の方が高いと思います。これは、「分かる」を重視しているからです。「解ける」は、家庭学習で、というのが集団授業の考え方です。が、実際には、「解き方の習得」まで考えないと、テストの結果には結びつきません。冒頭に書いた、「分かるけれど、解けない」は、解き方の習得が出来ていない、ということになります。

学校が「分かる」を重視しているのであれば、役割分担の観点から言うと、塾では「解ける」を重視すべきでしょう。学校と塾の両方が、「分かる」に重点を置いても、「解ける」がカバーできず、解けないままで終わってしまいます。ということで、当塾では、「解ける」にも重点を置いています。解けるにもというのは、理解できていない生徒には、「分かる」にも時間を割くからです。

もちろん、「解ける」に重点を置くというのは、問題演習だけをやるということではありません。当塾は、個別指導塾としては、先生による説明も多いと思います。「解ける」とは、「考える過程」を身につけるということです。もっと言えば、「論理的思考力」を身につけるということになります。理解すれば、自然と思考力も身につくということはありません。「考え方」を指導する必要があります(国によっては、「思考力」の授業を設置する学校もあるくらいです)。かといって、先生が、一方的に説明するだけでは、解けるようにはなりません。最終的に、思考力が身につき、解けるようになるためには、練習が必要です。ですので、塾の授業では、「説明」と「問題演習」のバランスが大切になります。先生の説明が少なすぎると物足りない授業となり、説明が多すぎると思考力が身につきません。「説明」と「問題演習」のバランスを絶妙にとれるのが、良い先生の条件の一つとも言えるのです。

当塾では、授業の中で、「分かる」、そして「解ける」を目指します。

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小澤典生

エール学院の学院長です。函南町で生まれ、地元の中学校、私立高校に在籍しました。高校卒業後、関西外国語大学に進学しますが、2年後に退学。英語を話せるようになりたい!と思い、渡米を決意しました。私は、帰国子女でもありませんし、特別な英語教育を受けたわけでもありません。予想どおり(?)、言葉の壁に苦しみながら、4年後には州立アイダホ大学を卒業。帰国後、かねてからの夢だった、塾講師の仕事に就きました。現在では、学院長業務に加え、不登校生支援、高校のキャリア教育支援なども行っています。